真言宗 空海 774~835 弘法大師(こうぼうだいし

真言宗 空海 774~835 弘法大師(こうぼうだいし)

空海(くうかい)が開いた真言密教は「即身成仏」をめざす大日経の教え。
大日如来は宇宙の根本仏とされ、すべての神仏の母体と考えます。 宇宙の万物は大日如来の現われですから、
人間も基本的には大日如来と 同じ存在とされ、修行をすれば、「即身成仏」できると説いた。

経典   大日経(だいにちきょう)
金剛頂経(こんごうちょうきょう)

胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)     大日如来を中心とする宇宙を描いた曼荼羅
金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)      悟りに至る道程を描いた曼荼羅

本尊   大日如来(だいにちにょらい)宇宙の根源的な物を教主とする。
右側   不動明王(ふどうみょうおう)(あるいは十三仏)
左側   弘法大師像

基本は上記ですが、諸仏は大日如来の「応化身(おうけしん)形を変えたお姿」と見るので
※どの仏像をまつっても良いとされる。


 真言宗

日本仏教の1宗派。真言密教、真言陀羅尼(だらに)宗などともよばれる。806年(大同元)空海が中国密教を日本につたえ、816年(弘仁7)高野山に金剛峰寺開創のころ、宗派として独立した。最澄が天台宗につたえた密教を「台密」とよぶのに対し、「東密」とよばれる。

大日如来を本尊として崇拝する。日常の人間の言葉を廃して、大日如来の言葉すなわち真言を直接きき、身(体)・口(言葉)・意(心)のすべてにおいて大日如来と一体化することで、現世における成仏(即身成仏)が可能となると説く。そして真言をきくことができるかどうかはその人の心のあり方によってちがうとし、空海は人の心のあり方を10段階の住心にわけた(→十住心論)。

根本聖典は「大日経」と「金剛頂経」で、理論的教義だけでなく、実践面を重視する。また、大日如来を中心として周囲に諸仏を配した曼荼羅によってあらわされる宇宙観をもつ。真言宗では、密教の伝統は、インドで大日如来が金剛薩埵(さった)にさずけた法が、竜猛(りゅうみょう:竜樹の密教名)、竜智、金剛智にと伝授されて、やがて唐に伝えられた。唐では、不空、恵果そして空海へとつたえられたとし、この8人を「付法の八祖」とよぶ。

真言宗の歴史

中国で密教の奥義を皆伝されて帰朝した空海は、京都の高雄山寺に住したのち、高野山に金剛峰寺、つづいて京都に東寺をひらいた。空海はこれらを根本道場として真言宗の高揚につとめ、ひろく社会的・文化的活動もおこなった。真言宗は平安時代を通じてさかえ、教理・儀式・仏教芸術などの各方面にも大きな影響をおよぼした。また、実慧(じつえ)、真済(しんぜい)、真雅、真如といった高僧が多くでて、空海没後もその遺志をよくうけつぎ、真言宗の発展につとめた。

しかし、真言宗の急進的改革をめざした覚鑁が高野山や東寺と対立して根来(ねごろ)山を本拠とすると、真言宗は覚鑁の流れをくむ新義真言宗と従来からの古義真言宗の2つに大きくわかれた。古義真言宗では大日如来自身(本地身)が説法するとする本地身説法を説くのに対して、新義真言宗では大日如来が衆生(しゅじょう)に説法するためにとった加持身が説法するという加持身説法を説くのが大きな違いである。

新義真言宗はのちに長谷寺を中心とする豊山(ぶざん)派と智積院(ちしゃくいん)を中心とする智山(ちざん)派にわかれた。古義真言宗は、仁海のたてた小野流と寛朝の広沢流の2派にわかれたのを皮切りに分裂をくりかえし、十二流、三十六流をかぞえるにいたった。現在、高野山真言宗をはじめとして、山階(やましな)派、醍醐(だいご)派、御室(おむろ)派、東寺派、泉涌寺(せんにゅうじ)派など約30派がある。


空海(くうかい)

空海 くうかい774~835

平安初期の僧で、真言宗の開祖。遍照金剛(へんじょうこんごう)、弘法大師ともよばれ、俗に「お大師さま」の呼び名でしたしまれている。天台宗の開祖の最澄とともに平安仏教を代表する僧であり、三密とよばれる行を実践して大日如来と一体化することで現世での成仏をめざす即身成仏が可能であるとの教えを説いた。

仏教への道

讃岐(さぬき)国の屏風浦(びょうぶがうら:現在の香川県善通寺市)に、佐伯田公(たきみ)の子として生まれ、幼名を真魚(まお)といった。母は阿刀(あと)氏。15歳で母方の伯父阿刀大足(おおたり)にしたがって京都にのぼり、18歳のとき大学にはいって、「詩経」「書経」「春秋左氏伝」などをまなんだが、満足するにはいたらなかった。あるときひとりの僧から、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の真言を百万回となえれば、あらゆる教法を記憶できるとおしえられ、大学をでて阿波(あわ)国の大滝嶽や土佐国の室戸岬などで苦行した。 この苦行によって出家の決意をかため、名を空海とあらためて、南都六宗の研究にはげんだ。23歳のとき、大和の久米寺で「大日経」をみてから、密教に関心をいだくようになった。24歳のとき「三教指帰」を発表、儒教、道教を排して仏教にすすむ根拠を明らかにした。このあと山野にはいって修行していたともいわれるが、7年にわたって空海の行跡は不明である。

入唐と密教との出会い

空海は804年(延暦23)、遣唐大使藤原葛野麻呂(かどのまろ)の一行にしたがい唐にわたった。都の長安では、インド人仏教僧らにサンスクリットなどをまなび、諸寺を訪問して師をさがした。なかでも青竜寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)から密教をさずけられたことは、以後の空海の方向を決定づけた。またこの留学中、空海は仏教のみならず、あらゆる中国文化に接することができた。恵果の死後、空海は留学を2年できりあげ、多くの密教の経論、仏具、曼荼羅などをもって、806年(大同元)に帰国した。 空海は、はじめ九州にたどり着き、筑紫の観世音寺に滞在したのち、和泉(いずみ)国にうつり、809年京都の高雄山寺(神護寺)に住し、真言密教をひろめる拠点とした。比叡(ひえい)山の最澄ともしたしくまじわり、812年(弘仁3)には、最澄に灌頂をさずけたが、4年後には教義上の対立を理由に交友をたった。

恵果(けいか)

中国、唐代の僧。不空三蔵に仕え、密教をきわめる。のち、長安青竜寺に住し、晩年日本の空海に法を授けた。代宗、徳宗、順宗に信任され、三朝の国師と称された。(七四六~八〇五)

真言密教の確立

816年(弘仁7)から空海は修禅の道場として高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)をひらく大事業をすすめた。この間に、「弁顕密(べんけんみつ)二教論」「即身成仏義」「吽(うん)字義」「声字実相(しょうじじっそう)義」などをあらわし、真言教学の体系を確立した。823年、京都の東寺(教王護国寺)を鎮護国家(仏教によって国家をしずめまもること)の根本道場とし、翌年、高雄山寺を神護国祚(こくそ)真言寺と改称した。 以後、高野山・東寺・高雄山を拠点に真言密教の流布につとめるかたわら、828年(天長5)、東寺の隣に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)をたて、仏教だけではなく儒教と道教もおしえる日本最初の一般庶民教育をおこなった。830年には「十住心論」を完成。834年(承和元)、毎年正月宮中でおこなわれる顕教による法会(ほうえ)のほかに真言の修法をくわえるように上奏し、翌年から実施された。こうして、新しい仏教の確立と発展に努力したのち、高野山金剛峰寺において62歳でなくなった。

空海の思想と文化史的意味

空海は、経典の研究ばかりをおこない人々の救済をおこたっていた奈良仏教を批判し、即身成仏思想を強調した。また、「十住心論」でしめした人間の心や菩提(ぼだい)心の展開をまとめた思想は、日本仏教全体に深い影響をあたえた。空海が遍歴したといわれる各地には弘法大師信仰が生まれ、弘法清水、大師の杖立(つえたて)柳などがのこっている。四国八十八カ所の巡礼も、この大師信仰から生まれたものである。


 高野山(こうやさん)

和歌山県伊都郡高野町にある高野山真言宗の総本山、金剛峰寺(こんごうぶじ)の山号。 和歌山県北東部の山地。陣ケ峰(1106メートル)、楊柳山(1009メートル)などに囲まれ、紀ノ川・有田川の分水嶺をなす標高九百メートルの山頂平坦面。弘仁七年弘法大師が開山し、真言宗の霊場となり、金剛峰寺など一群の寺院がある。野山。南山。南岳。八葉峰。

信仰と歴史

平安前期の816年(弘仁7)、空海(弘法大師)が勅許をえて真言密教の修行道場として金剛峰寺の創建に着手、空海の死後に弟子の真然らによって大塔・西塔などが建立された。平安中期から大師信仰がひろまり、藤原道長ら都の貴人や上皇があいついで参詣し、荘園・寺領を寄進した。中世には鎌倉幕府・室町幕府の庇護をうける一方、高野聖が全国をまわり、地方武士や商人層はじめ庶民各層にまで信仰をひろめた。織豊期の1581年(天正9)、織田信長勢による圧迫がはじまり、85年に豊臣秀吉に屈服。のち秀吉から2万1000石の寺領を安堵(あんど)された。江戸時代にも幕府の保護と監視のもと全国的布教活動を維持、山上には門前町が発達した。


参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.

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