黄檗宗 隠元 1592~1673
経典 特になし
大本山 万福寺
黄檗宗(おうばくしゅう)
日本での禅宗の一派。開祖は隠元。大本山は宇治市の黄檗山万福寺で、末寺は約500。
同じ禅宗の臨済宗、曹洞宗がいずれも鎌倉時代の初期に伝来したのに対し、隠元の来日は江戸時代の初期だった。彼の禅は教義や修行などの面ではそれまでの臨済宗との違いはなかった。しかし、臨済宗がはやくから日本化していたのに対し、隠元は異民族国家清に反対する中国の国粋化運動に思想的影響をうけていたので、自分は中国禅の正統派であることを強調し、独自の宗風を生んだ。黄檗山万福寺の山号寺号も隠元がすんでいた中国の地名からとったもので、住持(寺の主)も第13世まではすべて中国僧であり、仏像や建築、修行生活も中国様式であった。
隠元についで第2世となった木庵性(もくあんしょうとう)が、禅僧のしたがうべき規則である清規(しんぎ)を確立し、江戸白金に瑞聖(ずいしょう)寺をひらいて関東の拠点とした。木庵の後継者鉄眼道光は、1678年(延宝6)に黄檗版「大蔵経」を完成し、その板木は現在も宇治万福寺にのこっている。また、彼は飢饉をすくうために、「大蔵経」作製のための資金をなげうったことでも知られる。第5世高泉性(こうせんしょうとん)が中興したのちはしだいに衰退にむかう。1874年(明治7)、臨済宗に合併させられたが、2年後にふたたび独立した。
黄檗宗の宗風は臨済宗の禅に明代の念仏禅をくわえ、読経は唐音、儀式などの決まりは明朝風である。隠元、木庵に即非如一(そくひにょいち)をくわえた3人は黄檗三筆として知られるほか、明朝風の芸術を数多くつたえた。
隠元(いんげん) 1592~1673
江戸初期に中国(明)から渡来した禅僧で、日本黄檗(おうばく)宗の開祖。福建省の出身で、諱(いみな)は隆琦。1620年に出家し、37年に中国の黄檗山万福寺の住職になった。54年(承応3)、長崎、興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)らの願いで来日を決意。63歳にして、弟子20人あまりをともない、興福寺にはいった。のちに、江戸にむかい、将軍家綱の尊信をうけ、生涯日本にとどまって念仏禅を布教するようにもとめられて、宇治に黄檗山万福寺をたてた。これは、中国のものと山号寺号が一致するだけでなく、建築や生活様式まで明風で、密教や浄土教のいりまじった独特の明朝の禅をつたえるものだった。その影響は仏教各派だけでなく、隠元と交渉をもった多くの人にもおよんだ。書にすぐれ、弟子の木庵、即非とともに「黄檗三筆」とうたわれた。なおインゲンマメなども隠元がつたえたとされるが、彼がつたえたのはただしくはフジマメだったといわれる。
鉄眼(てつげん) 1630~82
江戸初期の黄檗宗の僧。鉄眼は号で、諱(いみな)は道光。肥後の人。13歳で出家し、浄土真宗の僧となったが、隠元が来朝して新しい禅を説いていることを知ると、その門にはいった。ついで、隠元の高弟木庵についてまなび、その法をついだ。1668年(寛文8)鉄眼は仏教聖典である「大蔵経」の版木をつくって印刷することを決意した。版木をおさめるために宇治万福寺に宝蔵院をたて、南は九州から東は江戸まで、各地をまわって経典の講義をしたり喜捨をつのったりして資金をあつめた。途中で2度の大飢饉(ききん)があり、あつめた喜捨を難民救済に投じたため作業はおくれたが、十余年をへて「鉄眼版大蔵経」は完成した。その版木4万8275枚は、現在も宝蔵院にある。
参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.