最澄 767~822 伝教大師最澄(でんぎょうだいし)

天台宗 最澄 767~822 伝教大師最澄(でんぎょうだいし)

最澄(さいちょう)の教えとは、

「一切皆成(いっさいかいじょう」
「人はもちろん草や木でさえも成仏できる」という法華経の教え

経典   法華経(ほけきょう)=妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)
     朝題目・夕念仏と呼んで供養の中心にしている。題目は法華経

本尊   「釈迦如来(しゃかにょらい」であるが、
     他の諸仏(菩薩や 明王、諸天も含む)はこの本仏たる釈尊が衆生済度の為に
     様々に姿を 変えて現れた姿であるから本尊はどの仏像でも良い
右側   天台大師
左側   伝教大師


天台宗

仏教の日本八宗・中国十三宗の一つ。法華経を根本とする宗派。日本には奈良時代の天平勝宝六年に唐の僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、後、平安初期の延暦二三年に僧最澄が唐へ渡り、翌年帰朝して、比叡山に延暦寺を建てて日本天台宗を開創。朝廷の保護の下に隆盛をきわめた。後、分かれて山門派・寺門派・真盛派となった。比叡山延暦寺をはじめ、園城寺(三井寺)・日光輪王寺・上野寛永寺・中尊寺・妙法院(三十三間堂)・善光寺などが著名。特に、山門派の称。

現在の日本仏教のほとんどの母胎となった大乗仏教の一宗派。中国で成立し、日本では独自の発展をとげた。天台法華(ほっけ)宗、台宗、法華円宗ともよばれる。


最澄(さいちょう)

最澄 さいちょう767~822
平安仏教の代表的人物で、空海とならび称せられる日本仏教界の指導者。最大の功績は比叡山において、日本天台宗を開創したこと。諡号(しごう)は伝教大師。

出身と修行時代

最澄は、近江(おうみ)国に渡来人の子孫三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれ、幼名は広野といった。12歳のとき近江国分寺の行表(ぎょうひょう)のもとに弟子入りし、出家して名を最澄とあらためた。785年(延暦4)4月東大寺で受戒したが、同年7月突然比叡山にのぼって修行生活にはいった。788年に草庵をかまえて薬師如来を安置し、793年堂舎を整備して一乗止観院(のちの根本中堂)と称した。そして多くの経典をまなぶうち、天台教学にひかれるようになった。

渡唐と日本天台宗の開立

797年(延暦16)最澄は内供奉(ないぐぶ)十禅師にくわえられ、翌年比叡山で法華経の経典を講説する講会(こうえ)をはじめ、802年には南都の十大徳とともに高雄山寺で天台を講じた。804年7月、桓武天皇の天台振興の志をうけて、遣唐使とともに短期留学僧として渡唐。台州や天台山で、中国天台7祖の道邃(どうすい)と行満(ぎょうまん)から天台の教えを、さらに越州の順暁(じゅんぎょう)から真言密教の法をうけ、また然(しゅくねん)から禅法をまなんで、翌805年5月230部460巻におよぶ経巻をたずさえて帰朝した。帰国後、天台の教学を諸学僧に伝授し、秘密灌頂をさずけた。806年、天台宗からも毎年正式な僧2人をだすことを朝廷に申請し、正式にみとめられた。これは天台宗が南都六宗にならんで、国家の宗教として公認されたことを意味していた。

徳一との論争

最澄は密教修得の不十分さを自覚し、812年(弘仁3)高雄山寺におもむいて空海から灌頂をうけ弟子になったが、その後決別する。814年筑紫国にいき、翌815年には関東地方を巡行した。このころ、会津にいた法相宗の学僧徳一が「仏性抄」をあらわして天台宗を批判したため、最澄は817年「照権実鏡(しょうごんじっきょう)」を書いて、これに反論した。以後天台宗と法相宗の教義をめぐり数年にわたって論争がつづけられた。徳一は人間には小乗の教えにたつ人、大乗の悟りをひらく人、悟りをひらくことのできない人の区別があるという三乗思想を主張した。これに対して最澄は、小乗の教えも大乗にみちびくための方便であって、仏教によってすべての人が悟りをひらけるという一乗思想を展開した。

大乗戒壇の独立

最澄は自分の宗教の最終目的を、仏法によって国家をまもること(鎮護国家)においていた。そのために、天台宗にも戒壇が必要だと考えた。その当時、戒をうけるのは小乗戒を基礎とする南都の戒壇でなければならなかったため、最澄は「山家学生式」を提出して比叡山に大乗戒にもとづく戒壇を建設する許可を朝廷にねがいでた。これは南都仏教側からの猛烈な反論をうけたが、彼は「顕戒論」(3巻)をあらわして逐一反駁(はんばく)するなど、大乗戒壇の設立に全精力をかたむけた。しかし、彼の生前にはその努力はみのらず、最澄は822年比叡山の中道院でなくなった。結局大乗戒壇設立の許可がおりたのは、没後7日目のことであった。


比叡山 (ひえいざん)

比叡山は古くから山岳信仰の対象とされてきたが、長岡京遷都後の788年(延暦7)最澄が比叡山寺を創建、のち延暦寺の勅号をえて東塔・西塔・横川(よかわ)の3塔を中心に大伽藍ができた。天台宗根本道場として「南都」奈良の既成仏教に対抗、鎌倉時代の新仏教にかかわる多くの宗教者を生んだ。

延暦寺 (えんりゃくじ)

滋賀県大津市坂本本町にある天台宗の総本山。山号は比叡山。山門ともよばれる。最澄が創建し、平安時代以来、人々のあつい信仰をあつめた大寺院。平安京の東北に位置し鬼門にあたることから、王城をまもる寺とされ、南都とよばれた興福寺に対して北嶺(ほくれい)といわれた。

寺の起源は、788年(延暦7)最澄が創建した比叡山寺にある。最澄は804年に中国の唐へ留学、天台山にまなび、翌年帰国してこの地に天台宗をひらき、大乗戒壇の建立を申請した。しかし南都の旧宗勢力の反対にあい、天皇のゆるしをえて教団の独立が実現したのは、没後の822年(弘仁13)だった。翌年、延暦寺と命名された。


参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.

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