曹洞宗 道元 1200~1253
道元(どうげん)の教えとは,只管打座(しかんだざ」」
ただひたすら座禅する「黙照(もくしょう)禅」 ただひたすら座禅あるのみ。
座禅に打ち込むことによって悟りの境地に入り、仏と同じ涅槃の境地に至る。
経典 正法眼蔵
本尊 釈迦如来
右 道元禅師(高祖・承陽大師)
左 塋山(けいざん)禅師(太祖・常済大師)
大本山 永平寺 総持寺
曹洞宗(そうとうしゅう)
中国で発展した禅宗の1宗派。唐代の禅僧、洞山良价(りょうかい)を開祖とする。禅宗6祖である曹渓慧能によって大成された南宗禅は、その後五家七宗に分派した。曹洞宗はそのうちのひとつで、その名称は洞山と曹渓慧能の名にちなむものとされているが、洞山とともに曹洞宗の大成に活躍した弟子の曹山本寂の名をとったとする説もある。宋代以後、曹洞宗は臨済宗とならんで中国禅宗を代表する宗派となった。
日本の曹洞宗
曹洞宗は、鎌倉時代に道元によって日本につたえられた。道元は24歳のときに宋に留学し、天童山の如浄(にょじょう)から曹洞宗の法をうけた。1227年(安貞元)に帰国したのち、京都の建仁寺で、ただしい座禅の行法をしめした「普勧座禅儀」をあらわし、つづいて宇治に観音導利院興聖宝林寺をひらいて曹洞宗の布教につとめた。ただし、道元自身は曹洞宗という名称はもちいず、あくまでも釈迦そして達磨からうけついだ正伝の伝法を説いているのだと考えた。
その後、道元の名声が高まり、教団が拡大するにつれて、旧仏教側からの圧迫が強まったため、1244年(寛元2)波多野義重(よししげ)のまねきをうけて、越前国に永平寺をひらいてうつった。以後、道元は永平寺を根本道場とし、「正法眼蔵」をはじめとする著作をあらわして弟子の養成につとめた。 道元の門下からは、すぐれた弟子が輩出したが、なかでも4祖の瑩山紹瑾(じょうきん)は、能登に総持寺をひらき、曹洞宗を名のって教団の体制を整備して、曹洞宗の全国的展開の基礎をきずいた。紹瑾の弟子たちによって曹洞宗は民衆化され、室町以後、下級武士や庶民の間にもひろがって幅ひろい信者集団を形成した。
教義
釈迦を本尊とし、道元を高祖、紹瑾を太祖としてあおぐ一仏両祖を信仰する。臨済宗の公案を中心とした師との問答によって修行する看話(かんな)禅に対して、道元のつたえた「只管打座(しかんたざ)」すなわち、ただひたすら黙々と座禅し、座禅の中から自分の本性をみいだそうとする見性(けんしょう)禅をすすめる。
経典は釈迦の悟りを説明したものであって、悟りそのものではないとする禅宗の1派であるため、特別の経典はたてない。ただし、道元の「正法眼蔵」や、その要文を抄出した「修証儀」を聖典としてつかい、儀礼では「大般若経」(→般若経)がよまれる。
道元 どうげん 1200~53
鎌倉時代の禅僧で、日本曹洞宗の開祖。臨済宗の公案を中心とした禅に対し、只管打坐(しかんたざ:ひたすら座禅をすること)を提唱し、自分のもっている本来の仏性に目覚めよと説いた。道玄、希玄(きげん)、仏法房ともよばれた。
内大臣久我通親(こがみちちか)を父、太政大臣藤原基房(もとふさ)の娘を母として京都に生まれた。3歳で父、8歳で母をうしない、13歳のとき、天台僧であったおじの良観をたずね、そのすすめで比叡山横川(よかわ)の千光房にはいった。翌1213年(建保元)天台座主(ざす)公円のもとで、剃髪(ていはつ)し、延暦寺の戒壇で大乗菩薩戒をうけて道元と名のった。天台宗の教学をまなぶうち、天台宗では人は生まれながらにして悟りをひらく性質をもっていることを説きながら、なぜ修行の必要性を説くのかに疑問をもった。山をおりた道元は園城(おんじょう)寺座主公胤(こういん)をたずね、ついで建仁寺の栄西の弟子明全(みょうぜん)について修行をつづけた。
1223年(貞応2)2月、道元は明全について宋にわたり、天童山景徳寺で無際了派につき禅をまなんだ。その後、中国各地を遍歴し、25年、明全が死んだ直後にふたたび天童山にもどり、無際の高弟如浄(にょじょう)に師事した。きびしい修行をつづけ、5カ月後に大悟して如浄から印証をさずけられた。
1227年(安貞元)秋、帰国した道元は建仁寺にとどまり、「普勧座禅儀」をあらわして、座禅こそ安楽の法門であるとして座禅の方法や心得を説いた。このため天台衆徒の反発をまねき、30年(寛喜2)、山城国深草の安養院に隠棲、「正法眼蔵」の著作にとりかかる。ついで、この地に興聖宝林禅寺を建立し、おとずれる僧俗を教化し入門者をふやした。他宗をはげしく排撃したので比叡山や臨済宗の圧迫をうけ、彼の俗弟子で越前に領地をもつ波多野義重のすすめもあって、43年(寛元元)、越前へくだり、翌年には大仏寺(46年に永平寺と改称)を創建した。ここで「正法眼蔵」を書きつづけ、また僧堂生活の規範である「永平清規(しんぎ)」もあらわした。47年(宝治元)には北条時頼にまねかれて鎌倉へでたが、すぐ永平寺へかえった。
1252年(建長4)秋、道元は病気になり、永平寺を高弟懐弉(えじょう)にゆずって、自分は京都にのぼって療養したが、翌53年8月、求道と思索と座禅の54年の生涯をとじた。
永平寺(えいへいじ)
福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗大本山。山号は吉祥山。道元の開創。道元は中国の宋から帰国後、山城国宇治深草で曹洞禅の弘布につとめたが、僧団の拡大や旧仏教の圧迫のため、1243年(寛元元)越前にうつり、翌年この寺を創建した。はじめ傘松峰(さんしょうぼう)大仏寺と称し、46年に永平寺と改名。53年(建長5)の道元の死後は、三代相論とよばれる教団の内部紛争や97年(永仁5)の火災で衰退したが、1314年(正和3)義雲により現在地に伽藍が復興された。
1321年(元亨元)内部紛争で永平寺をでた一派の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が能登に総持寺をひらいてからは、教団の主導権をめぐり総持寺と対立した。72年(文中元・応安5)北朝の後円融天皇から出世道場の綸旨(りんじ)をうけている。1473年(文明5)火災で伽藍をうしなうが、のち復興され、1615年(元和元)の寺院法度で総持寺(現在は横浜市)とともに大本山とみとめられた。
現在、境内には七堂伽藍のほか堂閣70余棟がある。道元筆の「普観坐禅儀」(国宝)などを所蔵。
参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.