時宗 一遍 1239~1289
一遍(いっぺん)の教えとは,「ただ一心不乱に念仏(南無阿弥陀仏)すればよい」 善人も悪人も、
ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば往生できると説いた。
経典 阿弥陀経(あみだきょう)
本尊 「南無阿弥陀仏」の名号
総本山 清浄光寺(しょうじょうこうじ)(神奈川県藤沢市)
系列寺院 国宝「一遍聖絵」所有の歓紀寺(京都)
時宗(じしゅう)
鎌倉末期に一遍がひらいた浄土教の1宗派。遊行(ゆぎょう)宗、臨命終時宗ともいう。
一遍は、はじめ浄土宗西山(せいざん)派の聖達(しょうたつ)に師事したが、熊野権現(→熊野詣)の神託をうけ、念仏を書いた紙の札をあう人ごとにさずける賦算(ふさん)と、念仏をとなえながらおどる踊念仏を中心として布教をおこなった。やがて一遍を聖とあおぐ信者集団が形成され、これを時衆といい、江戸時代には宗派を時宗とよぶようになった。
時宗とは「阿弥陀(あみだ)経」(→浄土三部経)の中の「臨命終時(りんみょうしゅうじ:命おわる時にのぞんで)」にちなんだ宗名とされ、一刻一刻を臨終の時と思って「南無阿弥陀仏」をとなえる時宗の教えをしめしている。
時宗は、遊行上人とよばれる師に絶対服従することを要求した。
時衆は師から阿弥陀仏の号をあたえられて往生が保証され、「時衆過去帳」に名前が記載された。
一遍の死後、弟子の真教が師をついで教団を組織した。
一遍は生涯、遊行生活をおくったが、真教は晩年、相模(さがみ)に当麻(たいま)道場無量光寺をたててそこに定住した。真教以降、師の地位をつぐものを代々「他阿弥陀仏」とよぶようになったが、京都では一遍の直弟子たちが独自に一派をたてて布教した。
第3代智得が第4代呑海(どんかい)に師の地位をゆずったのち、呑海と智得の弟子智光とがあらそった。智光は当麻道場にすんで当麻派をおこし、呑海は藤沢に清浄光(しょうじょうこう)寺をたてて遊行派を形成した。以後両派ならびたつ形となったが、江戸時代には遊行派が優勢となり清浄光寺が総本山となった。時宗は、一時浄土教の代表的勢力となったが、蓮如が浄土真宗教団を復興するとともに急速にその勢力をうしなった。
一遍(いっぺん) 1239~1289
鎌倉時代の僧で、時宗の開祖。「捨ててこそ」を自らの信仰のキーワードとしたので、「捨て聖(ひじり)」とよばれた。
諱(いみな)は智真。諡は円照大師。伊予の人。父は豪族河野道広。10歳のとき母をなくし、父の命で出家した。1251年(建長3)太宰府(だざいふ)にいき、法然の孫弟子の聖達(しょうたつ)のもとで浄土念仏(→浄土宗)をまなんだ。ついで肥前の華台のもとで浄土の教えをうけ、名を智真とあらためた。52年(建長4)ふたたび聖達のもとにかえり、63年(弘長3)父の死により伊予に帰国するまでの12年間、そこで修行した。そののち、一度還俗(げんぞく)するが、ふたたび出家。一説には、あるとき子供がまわすおもちゃの輪鼓(りゅうご)をみて「輪廻(りんね)もまたかくのごときか」とさとって仏門に帰したともいわれている。
1271年(文永8)の春に信濃の善光寺に参詣(さんけい)、善導の教えを感得し、「二河白道(にがびゃくどう)図」をうつしえがいて伊予にもってかえり、草庵(そうあん)にかけて念仏に専心したという。74年には四天王寺、高野山さらには熊野権現(→熊野詣)に参詣して、神のお告げをうけ、一遍と名のった。その後は、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、決定往生六十万人」と書いた木の札をくばりながら全国を遊行(ゆぎょう)、その足跡は九州から東北地方におよんでいる。その途中、89年(正応2)8月摂津でなくなった。その直前に、もっていたすべての経典や法具などをやきすて、「一代の聖教(しょうぎょう)みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」といったとつたえられている。
一遍の思想は、はるか昔、法蔵菩薩(ぼさつ)が阿弥陀仏になったときから、衆生(しゅじょう)の往生は決定しているという本覚(ほんがく)思想にもとづいたものだった。それゆえ南無阿弥陀仏の名号そのものに絶対的な力があるため、衆生の信と不信、浄と不浄などの別はいっさい関係なく、ひたすら名号をとなえればすくわれるという信仰が生まれた。その純粋な発露が踊念仏であった。
一遍の思想や生涯は、「一遍上人(しょうにん)語録」や「一遍聖絵(ひじりえ)」などでつたえられている。
熊野詣
くまのもうで 古代から宗教的霊場としてうやまわれた現在の和歌山県南部熊野地方にある熊野三山への参詣。熊野三山とは、熊野本宮大社(本宮)、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社(那智)の3社の総称である。3社は古くから中央にも知られていた神社で、神仏習合思潮の中で阿弥陀仏の浄土や観音の補陀落(ふだらく)浄土とも信じられた。 熊野三山に対する信仰は、この地方に天台宗系の寺院が進出した平安時代後期から全国的な規模にひろがった。こうした信仰の拡大には、皇室による尊崇も契機となった。その最初が907年(延喜7)の宇多法皇の参詣であった。上皇や法皇の参詣は「熊野御幸(ごこう)」とよばれ、その回数は、平安後期から鎌倉前期にかけての院政時代を中心に100回以上にのぼる。1201年(建仁元)に後鳥羽上皇に随行した藤原定家は、その詳細な記録「後鳥羽院熊野御幸記」をのこしてい
踊念仏 おどりねんぶつ
阿弥陀仏に対する信仰から、念仏や和讃(→声明)にあわせて、鉦(かね)、太鼓をたたいておどる一種の宗教的パフォーマンス。平安時代に空也がはじめたとされるが、定着したのは鎌倉時代からである。空也を崇拝していた時宗の開祖一遍が、諸国遊行(ゆぎょう)のおりに踊念仏をおこない、のち時宗にとりいれ、ひろめたという。さらに室町時代にかけて大変流行し、中世には壬生(みぶ)の大念仏、近世には六斎念仏、泡斎念仏、葛西(かさい)念仏などがおこり、芸能化して娯楽的色彩が強まり、全国各地でおこなわれた。出雲阿国(いずものおくに)が踊念仏に歌をまじえておどったのが歌舞伎の始まりとされるように、踊念仏がもととなって生まれた芸能は数多い。
聖 ひじり
特定の寺院に属さず人里はなれた山中で修行したり、社会事業などをおこないながら民衆の教化につとめた僧。古くは「日知り」として、太陽のようにすべてのことを知っている聖帝、聖人のことをいったのが、奈良時代にはいり仏教が盛んになると僧の尊称となった。 そのもっともはやい例は、民衆をひきいて土木事業や灌漑(かんがい)事業をおこなった行基で行基菩薩(ぼさつ)ともよばれた。平安時代にはいると阿弥陀仏に対する信仰がめばえ、念仏聖が活躍した。彼らは浄土教に帰依し、寺院からはなれて念仏にはげんだ。また庶民の間に仏教をひろめたのも聖であった。平安中期には、「市聖」とよばれた空也がでた。 こうした半僧半俗の聖は草庵をいとなみ、「別所」とよばれる集落をつくるようになった。なかでも有名なのが、高野山につくられた別所で、ここに住した人たちを高野聖とよんだ。この念仏教化の大集団は中世を通じて庶民宗教に大きな影響をもちつづけた。ついで法然がでたが、彼も比叡山の別所のひとつである黒谷の念仏聖のひとりであった。その弟子親鸞も聖と同義である聖人(しょうにん)とよばれた。その後、鎌倉後期の一遍は踊念仏をもって全国を遊行し、「捨て聖」とも称された。
一遍上人絵伝(一遍聖絵(ひじりえ))
時宗の祖一遍の諸国教化行脚を描いた絵巻物。聖戒の編纂したものと宗俊の編纂によるものとの二つの系統がある。聖戒が伝記を書き、円伊が描いた京都歓喜寺蔵の一二巻本(正安元年完成)は国宝。
参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.