住不退転とは不退転に住す、不退の位に住すという。

住不退転とは不退転に住す、不退の位に住すという。

不退の位というのは、大乗仏教において菩薩の段階の初めを「不退位」という。

即ち菩薩道に立つということを言っている。しかしながら不退という意味が非常に面白い。
もはや退転しない、何が起っても後ずさりしないということ。
後ずさりするというのは、急な坂の途中でとまると後ずさりして、元の杢阿弥になってしまう。
登り道とは世間道のことである。前に進んでもやがて後退し、一歩進んでは二歩後ずさりをするようなもの。
こうして一生懸命進んでとうとう後ずさりしない所に曲る。

これを不退転という。これを仏道という。そこに立つ、これを「不退位」という。

大乗仏教の中奥の祖といわれる竜樹菩薩は「十住論」において、「菩提心を起して不退位を得る」と言われた。
不退の位とはもはや一歩も退かない、前進また前進の人。
これを正定聚の菩薩という。
菩提心を起すならば正定の菩薩位(不退の位)に直に到るのであると経に説かれている。

苦が抜けると同時に一瞬にして絶対の幸福という「楽」を与えられる。「与楽」である。
絶対の幸福とは「さとりの五十二位」の中、五十一段目の「正定聚(しょうじょうじゅ)不退転の菩薩」になることだ。本願に救われた瞬間、さとりの位を阿弥陀仏の本願力によって五十一段、高飛びさせられ、仏の覚りにほぼ等しい「等覚」「等正覚」になるのだ。親鸞聖人は次のようにご教示なされている。

「正定聚(しょうじょうじゅ)」とは正しく仏の覚りに至ることに定まった人々(聚)との意であり、その人は臨終まで正定聚であり、臨終と同時に阿弥陀仏の浄土に往生し、五十二段目の仏の覚りを開くことが定まってしまっている。
現世ではあくまで正定聚であり、仏覚は死後である。

「不退転」とは、後戻りしないことである。さとりの位は下から四十段までが退転位、四十一段以上が不退転位である。四十段までのさとりは一瞬の油断によっても崩れてしまうことがあるが、四十一以上は後戻りしないのだ。正定聚の位は不退転で絶対に崩れないから「絶対の幸福」なのである。
このように阿弥陀仏の本願により絶対の幸福になることを「信心決定(けつじ
ょう)」または「信心獲得(ぎゃくとく)」等と言う。

 

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