此岸にいながら彼岸に渡る六つの方法(実践編)

此岸にいながら彼岸に渡る六つの方法

布施波羅蜜(ふせ)    布施をすること
持戒波羅蜜(じかい)   戒律を持って生きること
忍辱波羅蜜(にんにく)  堪え忍ぶこと
精進波羅蜜(しょうじん) 努力すること
禅定波羅蜜(ぜんじょう) 座禅すること
智慧波羅蜜(ちえ)    前五つの波羅蜜の実践によって得られる智慧のことです。


布施波羅蜜(ふせ)とは

布施といえば、誰かにものをあげること、というのが普通の考えますが、仏教の考え方では、・・・ 例えば、物乞いがいてお金を恵んであげようとする。このとき「少ないとケチと思われるかなぁ」あるいは「金持ちだと思われたいから、少し奮発するか」などと考えてはいけません。物乞いがいるから、お金をあげる、それともさっさと無視する、どちらかでよいのです。これが真の布施です。あれやこれやと考えたら、それは布施でもなんでもありません。 本当の布施とはこだわりをなくしてすべきです。

持戒波羅蜜(じかい)とは

持戒とは戒律を持って暮らす事です。仏教では在家の人が守るべき五戒があります。 殺生(せっしょう)をしてはならない 盗みをしてはならない 淫らな愛欲の行為をしてはならない 他人を欺いたり,嘘をいってはならない 深酒をしてはならない ずいぶんと難しい事をおっしゃると思うでしょうが、例えば、嘘をつくと、それをごまかす為に、また嘘をつきます。はじめから嘘などつかなければ、その後に嘘をつく必要はないはずです。 本当の持戒はただ守るだけのものではありません。 戒律を持つことは、戒律がまた私たちを守ってもくれます。

忍辱波羅蜜(にんにく)とは

忍辱とは耐え忍ぶことである。こういうと怒りたいときに怒らず、文句もいわずグッと我慢することだと思う人が多いでしょう。殊に日本人は、こういうことが美徳だとさえ感じています。しかし、本当の忍辱とはこのことではありません。 私たちは「人さまに迷惑をかけてはいけない」と常々いっている。しかし人はどこかしらで、必ず他人に迷惑をかけて生きているものである。それを自覚せよと、仏教は教えている。自覚すれぱ「すみません」と詫びる心が芽生えてくる。この心があれば、他人の迷惑も許すことができる。 忍辱とは他人の迷惑を許すことである。

精進波羅蜜(しょうじん)とは

精進とは「ゆったりとした生き方」です ある剣客のところに一人の剣客Aが入門を請いに来ました。「先生、私が本気で修行をすればどれくらいで奥義を得られるでしゅか?」と聞きました。「まあ、5年くらいだろう」と答えました。「それでは寝食を忘れて修行すれば?」と聞くと、「それなら10年くらいだろう」「では、死ぬ気で修行すれば!?」すると「一生かかっても無理だな」と答えました。これを聞いた剣客Aはとうとう怒りだしました。しかし、剣客家はなぜだかわかるまでは、入門を赦さないと言いました。 実は、剣客Aは本当の精進を知らなかったのです。血のにじむような精進は精進ではなく、単に執着、執念である、と言う事に気づいていません。仏教ではこれを捨てよ、と教えているからです。 本当の精進、本当の努力とは、当たり前の事を当たり前にし、ゆっくりと着実に努力する事です。 釈迦は必死で苦行を重ねた結果、「中道(ちゅどう)」に気づかれました。人間らしいゆっくりとした生き方がこれです

禅定波羅蜜(ぜんじょう)とは

禅定といっても、いわゆる座禅をすることではありません。もちろん座禅をしても良いのですが、ここでいうのは禅的な生き方の事です。つまり、仕事をする時は仕事に、ごはんを食べる時はひたすらごはんを食べる。掃除をする時は掃除に、遊ぶ時は遊びに専念する事です。 日常のすべての立ち居振る舞いを、座禅と同じように、集中して、そのものになりきってせよ、という事です。 「○○しながら○○をする」をやめる事です。

智慧波羅蜜(ちえ)とは

この世の知恵ではなく、彼岸の智慧で生きる 本当の布施、本当の持戒、本当の忍野、本当の精進、本当の禅定、これらを実践するには、これまで私たちが常識だと信じてやってきたことを、もう一度別の方向から、別の視点で見直すことが必要だといえます。 常識や世間体にがんじがらめになった生活を、もっと風通しのよい生活にする。これが本当の智慧である。

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