貴方も狙われています!
日本には十八万を超える宗教団体が存在します。本来、煩悩を断ち、心を安らかにする宗教なのですが、現実には宗教団体が栄えて信者数が増えるばかりで、なぜか心豊かで、幸せな人々が増えているとは思えません。宗教の悩みも心の問題も減ったどころか、逆に悩みが増、被害者が増えています。・・・
1.永遠不変,一貫性がある。
これは立教の当時から現在まで、変わることのない教義が説かれているかどうかということだ。釈迦は、「初めもよく、中頃もよく、終りもよき教えを説け」といっている。悟りを開くということは、永遠の真理に到達することだ。その教祖の言動や教義が教団の都合で、コロコロ変わる宗教はインチキだということになる。
2.宗教にも普遍妥当性はある。
宗教の本質を考えれば、宗教の真理は、本来一つでなければならない。世の常識ないしは良識に照らして、おかしいと思うような宗教はありえない。
3.神は神殿をつくらない。
釈迦やキリストは大神殿をつくらなかった。時代がちがうとはいえ、神殿など教団財産の拡大を目的にするような宗教は必ず墜落する。
4.「罰があたる」と恐怖心に訴えない。
人の心を安らかにするのが、宗教である。神や払を引き合いに出して恐怖心を与える宗教はニセモノである。
5.教祖を神格化しない。
人間は神ではない。釈迦やキリストが、偶像崇拝を否定したことでもわかるように、教祖を神に仕立てることは、驕(おご)りと増上(ぞうじょう)慢の結果である。
6.言うこととやることが一致している。
慈悲や愛を説きながら、その一方で豪邸に往み、贅沢している教祖は、民衆の苦しみを理解できない俗物である。
7.現世利益(げんぜりやく)だけを説く宗教は正しくない。
新興宗教は現世利益を売り物にしているところが多い。現世利益とは、要するに病気治し、商売繁盛、お金儲けという欲の絡んだことばかりだ。その結果、宗教団体が栄えても宗教とはほど遠い我欲にまみれた日本の現状があるわけである。
8.正しい宗教は「盲信」を強要しない。
信じることは重要であり、大きな力の源であるが、だからといって、教団が「素直に信じろ」といい「疑問を持つことは信心が足りないからだ」というのは、まちがいである。信仰をしていて、疑問が生じるのは、当然のことであり、その疑問を解くことで、さらに信仰が深まるというのが、正しい信仰であろう。その意味では、疑問に答えられない宗教は本物ではない。
9.正しい宗教は金で救われるとは言わない。
人の弱みにつけ込み、同情するふりをしては「因縁を切ってあげる」とか「水子の祟りがある」といいながら、大金を強要することは、危ない宗教を見分ける、もっともわかりやすい判断基準である。
10.正しい宗教は会員を増やせと強要しない。
伝道も献金も強制的に行うものではない。本来は、自分が信仰によって救われ、幸せになれた喜びを自分一人のものにしてはおけないという思いから行われるべきものだ。 「自分が救われるためには、まず人を救わなければならない」といって、信者獲得を強襲することは、本末転倒である。
11.領収証を出さない教団は危ない。
問題のある教団は、一般に領収書を出すことを警戒している。あとで訴えられたり、脱税で問題になったり、ロクなことにならないというわけだ。 もっとも、最近は堂々と領収書を出して、集団訴訟が起こっている教団もある。その意味では、領収書を出す出さない以前に、領収書が欲しくなるような高額の献金自体が問題ということだろう。
12.正しい宗教は批判を受け入れる
教祖の神柊化や偶像崇拝に象徴されるように盲信を強要する一方、信仰や教団の在り方に対する批判さえ許さない教団が多い。人間は批判があって、初めて成長もし、正しい道を踏み外すことなく生きていけるのである。 その当たり前のことが許されないため、宗教の現場には教団によって批判能力や判断能力まで取り上げられ、思考停止状態にされた信者たちでいっぱいなのである。
以上のように、正しい宗教を見分けるポイントは、別に難しいことではなく、良識あるいは常識に照らしてみれば、当たり前のことです。